【今回の取材地】
総人口:39,207人
人口密度:250人/㎢
隣接自治体:石岡市、土浦市など
(2023年12月1日時点)
霞ヶ浦内水面漁業の現実
旧霞ヶ浦町地区の方々に話を聞いて周ると、一部過疎地域指定になるなど暗いニュースが多い中で、明るい話題として聞こえてくるのはレンコンの好況さ。もとよりレンコンは霞ヶ浦界隈における主要な農作物だったが、需要の高まりとともに、数ある第一次産業の中でも注目を浴びている。
一方で暗い影を落としているのが霞ヶ浦を舞台にした内水面漁業だ。霞ヶ浦の環境変化の影響を受けて漁獲量は減少。収入的な不安はもちろんのこと、一朝一夕ではいかない技術の伝承、早朝から漁に出なければならないハードな就業環境などによって、後継者不足は顕著に。紛れもなく衰退の一途をたどっている。
「シラウオは結構獲れるけど、最近はワカサギを全然見なくなって商売にならない。エビも駄目。ハゼも駄目。3年くらい前からかな。いつからかワカサギが見えなくなったよな。水温が上がっちゃうと駄目なんだよ」
旧霞ヶ浦地区の坂地区で創業100年を超える中村商店を営んでいる中村 昇さんは、霞ヶ浦の実情に関してそう語っている。中村商店は社長である中村さんが自ら漁に出て魚を獲り、自社の工場で佃煮へと加工し、製品化して販売を行うという、一気通貫で水産業を営んでいる。家業に入って30年近く経つ中村さんは、良い時代も、悪い時代も、身をもって体験してきている。その上で、ここ数年の霞ヶ浦漁業の状況はこれまでにない厳しさを感じているという。
「今は漁だけじゃ飯は食えないから。漁をしながら農業をやっている人も多いし、農業専門になった人もいるもんな」
かすみがうら市と土浦市が接する霞ヶ浦沿岸一帯は、10kmを超えるレンコン畑が列をなしている。そのため、以前より漁を生業としながら、レンコンを兼業で行っている人は珍しくはなかった。本業である霞ヶ浦の漁は春から秋に集中しているため、手が空く冬にレンコンに携わるというのが大半。ただ、その比重は変わりつつある。
「レンコンには敵わないよね。今は田んぼの取り合いになっているくらいだから。単純な売り上げだけ見ても倍くらい違う」
今は燃料費も高騰し、佃煮の加工においては製品化する際の包材費も上がっている。水産業に関して、ポジティブな状況は簡単には見つけられない。それでも中村さんは、冬の間はレンコンを手掛けながらも、あくまで家業である水産業をメインに事業を続けている。
後継者をつくらないという選択
ただ、いずれはということは中村さんの頭に過ると言う。50代前半の中村さんは霞ヶ浦の漁師の中では、年齢だけで言ってしまえば若手という存在。70代、80代が多数を占める霞ヶ浦漁師の現状を考えれば、まだまだ先は長いとも言える。それでも未来を見据えたときに、自身の後継者はいないし、立てることも考えていない。否が応でもどこかで区切りをつけることは、現実的な判断になってくるのである。
「俺、毎朝1時半から起きてんだよ。漁に出て、朝帰って来て、昼間は佃煮つくって。やっぱり、子どもにはやらせたくないよね。楽させてやりたい。やれとは言えないよ。俺の時とは時代が違う」
とはいえ、寂れていく霞ヶ浦漁業の現状を黙って見過ごすつもりは、中村さんにはない。少しでも多くの人に霞ヶ浦の水産物を使った佃煮に触れてもらおうと、以前より独自で「スマイルフェア」というイベントを、自社の敷地を使ってゴールデンウイーク期間中に開催している。少しでも旧霞ヶ浦町地区が元気になればという思いがあってのことで、中村さんは次のように語る。
「何でもいいんだよ、別に盛り上がるのが漁業じゃなくても、(旧霞ヶ浦町地区が)活気づけば。そしたら人が寄ってくるから。イベントでもなんでも、やらないことには始まんねえからな。でも、ずっと同じことばかりしても飽きてきてしまうから。新しいこともやりたいんだけど。それにはお金もいるし、一人じゃ限界もあるよな」
取材を始める際には、「霞ヶ浦(の漁業)に明るい話題なんて何も無いよ。それでも話を聞く?」と言った中村さん。それでも話が進むに連れて、「でも、何とかしたいよな」という言葉が聞こえてくるように。これほど厳しい状況でも、農業へのシフトを行わず、霞ヶ浦の漁業に携わり続けるのはなぜなのだろう。この地への愛着? それとも、100年続いた家業への矜持?
「やっぱり俺は漁の方が楽しいから」
その答えは考える上で、最もシンプルで、納得できるものであった。
霞ヶ浦の象徴“帆引き船”
かつて、霞ヶ浦における漁の主役は、風という自然を動力にした帆引き船だった。より効率的な漁を実現するトロール船が1960年代後半に登場するまでは、霞ヶ浦の湖上には白い巨大な帆がいつもはためいていた。
帆引き船が力強くも優雅に霞ヶ浦の風を受けていた様子は、年齢が90に近づいてきた今も水産加工会社「出羽屋」を精力的に経営する戸田 廣さんにとって、霞ヶ浦における原風景となっている。
「私は旧千代田町地区の人間でね、こっち(旧霞ヶ浦町地区)の人ではなかった。もともと別の仕事をしていたんだけど、伯父の手伝いで出羽屋の仕事をやることになり、それで結婚もして、そのまま出羽屋に居座ることになって。私が出羽屋の仕事を始めたときは、帆引き船が全盛期だったんですよ。まだ、エンジンを載せたトロール船が無くてね。全部帆引き船で魚を獲っていて。湖上に300漕くらいいたのかな」
帆引き船に関する資料にあたると、帆引き船漁の最盛期には900艘を超える船が湖上を埋め尽くしていたとの記録も見受けられる。ワカサギの漁獲量が1000トンを超える年も珍しくなく、100トン前後となっている近年(それも現在はトロール船)と比較すると、別世界の様相である。
帆引き船(漁)は明治時代に旧霞ヶ浦町出身の折本良平が発明した漁船 / 漁法だ。霞ヶ浦では長らく大徳網漁(数百メートルの網を約20人で引く)という人力と人手が必要な漁法が主流であった。それでは一人ひとりの分け前が十分ではないと、少しでも楽に、少ない人手で漁をできるようにと考案されたのが帆引き船だ。凧の原理を活用して、風の力を帆に伝えて船を動かし、水中におろした網を引く。大徳網漁に比べて少ない労力と人数で、たくさんの魚を獲ることができる帆引き船が登場したことにより、霞ヶ浦の漁業は新たな盛り上がりを見せるようになっていった。
しかし、帆引き船以上に漁獲量が格段に上がるトロール船が登場したことによって、帆引き船はその役目を終えた。今では帆引き船を操船できる人はほんの一握りとなってしまい、現在その姿を見ることができるのは、期間限定で操業されている観光帆引き船のみとなっている。
その帆引き船に目を付けたのが戸田さんだ。きっかけは、使われることなく放置されて、朽ち果てそうになっている帆引き船を目にしたことだった。
「今から25、6年前かな。昔に漁で使っていた木製の帆引き船が2艘置いてあるのを見つけて。このまま置いていたら、腐ってしまってしまうなと思ったんだよ。それで考えたわけ。操船できる人が私らの前後の年代しかいないから、このままでは帆引き船やその文化が無くなってしまうのではないか。ハード面(帆引き船)はつくれても、ソフト面(操船者)はどうすんだって」
この出来事をきっかけに、帆引き船という文化をかすみがうら市に残すべく、早速行動に移した当時の戸田さん。その足掛かりの一つとして、美しい帆引き船の姿を世にアピールしようと、「霞ヶ浦帆引き船フォトコンテスト」の実現に奔走。著名なカメラマンを審査員に立て、2001年に第1回目が開催された。以後、今に至るまで継続的に開催されている。
その後も長年にわたり帆引き船の歴史と文化の保全に尽力し続け、2014年には「霞ヶ浦帆引き船・帆引き網漁法保存会」を設立。戸田さんは会長職に就いた。
それらの活動が認められ、2021年には戸田さんが代表として「第43回サントリー地域文化賞」を受賞(※受賞対象者としては、土浦市、行方市の帆引き船に関する保存会も含む)。一度消えかけた帆引き船の姿を表舞台へと引き戻せたのは、戸田さんを中心とした保存会の力なくして実現しなかったと言っても過言ではない。
ただ、戸田さんの夢はまだこの先にある。それは帆引き船漁の復活だ。
帆引き船による価値創造で、持続可能な漁業の実現へ
「私は手を挙げて、帆引き船漁の復活を声高に言っているんだけど、みんな『そんなこと無理だよ』って、同業者の皆様が乗ってくれないんですよ。逆に同業者以外は面白いって言ってくれるんだけどな」
同業者の人たちが「無理だ」というのには理由がある。まず、帆引き船漁はトロール船を使った漁に比べて効率が悪く、漁獲量が少ない。つまり、売り上げが立たないのだ。もう一つの大きな理由は、帆引き船を操船できる人がいない上に、指導できる人もかすみがうら市には1人しかおらず、そもそも漁に出れる人がいない。確かに「無理だ」と言いたくなるのも理解できる。それでも、戸田さんは諦めるつもりは一切ない。
「確かに帆引き船漁では獲れる量が減る。だから、我々(出羽屋)はその帆引き船で獲った魚を高く買う。相場がキロ500円だったら、1500円。帆引き船はトロール船に比べて燃料を使わないからエコで、ゆっくり網を引くから魚を傷つけずに生きたまま獲れる。そういった価値もあるんです。
仕入れ値が上がるから、売値も上げなくちゃいけないけど、それはお客様にも少し負担してもらって。我々はそんなに利益を出さなくてもいい。これが売れることによって、帆引き船の存続ができるんだ、霞ヶ浦が元気になるんだと言えば、協力してくれる人が現れるはずですよ。
操船できる人も、保存会が運営している観光帆引き船を通じて育成をやっていて、実際に網を引いてシラウオを獲ったりしています。霞ヶ浦の漁期はおよそ半年。その期間に1,000万円の収入があるようにすれば、やりたいと手を挙げる人が出てくるはず。今のトロール船の漁だと、その半分くらいの稼ぎが精一杯。しかも、そこから経費が引かれてしまう。でも、帆引き船はトロール船に比べて燃料費も掛からないから。帆引き船がいる風景が観光資源にもなるから、地域活性化にもつながりますよ」
決して夢物語で終わらせるつもりでないことは、戸田さんの熱のこもった説明から十分に伝わってくる。しかも、誰か帆引き船漁をする人が現れてくれればと、ただ待つだけのつもりもない。
「これから10年経ったら、霞ヶ浦から漁師がいなくなるかもしれない。そうなる前に、会社で帆引き船漁をやる若い社員を雇うのもいいかもと思っている。朝3時から漁に出て、6時に戻ってくる。100kgくらい取れれば、5、6万円の収入になるわけですよ。船とかの経費は全部会社で負担する。取れた分は会社と折半して。それを週5日やって。そういうことも考えているんです」
このように、戸田さんが帆引き船漁を復活させる狙いは、歴史や文化の継承という側面だけではない。沈み続けている霞ヶ浦水産業復活の起爆剤としての役割を、帆引き船に与えたいと考えているのだ。
ただ、戸田さん一人の力でどうにかできる問題でないことも確かである。
「私の話を聞いてもらえれば、いい話だなって言ってもらえる。でも、後に続いてくれる人がいないと、これは空論になっちゃうよね。年齢的なことを考えると、自分には時間が無いから、いろいろ考えちゃう。20代の若いころだったら、きっとこんなこと考えないよ(笑)」
「私が元気なうちにこれだけはやりたいな」と戸田さんはいう。もう一度霞ヶ浦の湖上に、いくつもの白い帆が風で揺れる日が来れば、その時は霞ヶ浦の水産業が危機だったという懸念が払しょくされた証になるかもしれない。
「帆引き船の活動を通じて最終的にはね、魚の量も種類も増えて、それを加工する人がいて、水産業が潤う。そういう流れがつくれたらいいですよね」
【参考文献】
- 霞ヶ浦水質浄化対策研究会,(1994年),よみがえる霞ヶ浦
- 茨城県生活環境部霞ヶ浦対策課,(2001年),霞ヶ浦学入門
- かすみがうら市郷土資料館,(2015年),霞ヶ浦の帆引き船物語
- 鳥越皓之,(2010年),霞ヶ浦の環境と水辺の暮らし