【今回の取材地】
総人口:154,734人
人口密度:248人/㎢
隣接自治体:津市、多気郡多気町など
(2023年8月1日時点)
和牛ブランドとして知らない人はいない、松阪牛。その松阪牛の中でも、伝統的な飼育方法で育てられた牛を「特産松阪牛」という。今回はそんな特産松阪牛に全ての時間を注いでいるといったも過言ではない、肥育農家さんのお話。
松阪市飯南町深野、松阪牛発祥の地。私が訪問した7月は緑に色づき始めた稲穂が、静かに風に揺られている季節であった。
深野への入り口は中心市街地から30分ほど。車で国道166号線沿いを走らせると、里山の風情を感じる景観が通り過ぎていく。左手には櫛田川が流れていて、川面に反射した美しい朝日がお出迎え。
道の駅で有名な「茶倉駅」の道路標識を通り過ぎてすぐの道を右折すると、深野へたどり着く。一気に勾配がきつくなり、細い道を丁寧にハンドルをきりながら運転する。上がったり下がったり。
しばらくすると、斜面にへばりつく様に建てられた立派な家が見えてくる。その脇には小屋のような建物も。停車すると、ガラス越しに一人の男性が寄って来る姿が見えた。特産松阪牛の肥育農家である、田中秀治さんだ。
「道、分かりましたかね? 分かりづらいですからね」
夏の陽射しで肌が小麦色に綺麗に焼かれた田中さんは、とても丁寧に挨拶をしてくれた。牛の肥育農家イコール、屈強な体つき、と勝手にイメージしていたが、華奢な身体をしていて、そして想像以上に焼けている。
「いま稲の様子見てたんですわ。ちょっと待っとってもらえますか?」
そうか、稲作もするんだ、と思いながら撮影の準備をしようと車を降りると心地の良い風が吹いているのに気が付く。気温も、中心市街地よりも低いかもしれない。
田中さんの方に目をやると、稲穂の中に埋もれてほとんど姿が見えなくなっていた。視線の先には、深い緑に覆われた山がそびえている。とても気持ちの良い場所で、ここで特産松阪牛が肥育されていると思うとなぜか納得してしまうような、自然と人が共存しているような空間。
牛肉の国内消費量は外国産がほとんどを占め、和牛は存在感を失いつつある。しかも、和牛の農家さんたちは年々少なくなっていて、松阪牛も同じような状況らしい。特に、昔ながらの伝統肥育をしている特産松阪牛というのがあって、その農家さんはほとんどいないそうだ。
そんな話を聞いて、田中さんに会ってみたいと思い、ここに足を運んだ。
松阪市といえば松阪牛、和牛と言えば松阪牛。そういった皆さんがご存じのようなことは知っていたが、それ以上松阪牛のことについての知識は一切なかった。事前のリサーチで分かっていたことは、松阪牛発祥の地である深野から肥育農家がいなくなっているということ、特産松阪牛は兵庫県で繁殖された子牛を導入した、長い肥育期間を経て出荷される特上の肉ということ、そして肥育農家さんは全ての時間と愛情を捧げて、牛とともに生きている、ということ。
田中さんがゆったりした足取りで戻ってきた。
「すいません、お待たせしました。じゃあまずは牛舎で、牛に朝食取らせましょうかね」
「田中さんは朝食取られたんですか?」
時刻は朝の6時。気になって聞いてみると
「いえ、牛が先ですから」
田中さんは、嬉しそうに牛舎の方に目をやり、「暑いな」と呟きながら、またゆっくりと歩を進めた。