【今回の取材地】
面積:112k㎡
総人口:13,622人
人口密度:122人/㎢
隣接自治体:南アルプス市、早川町など
(2024年1月1日時点)
自然や食事。人が生きていく上で、とても大切なものである。
今回ご紹介するのは、そんな自然と食との出会いを通じて、人生観が変わった人のお話。
「自然に囲まれた場所で自然食を取る。そうやっているうちに、僕は自分の人生についても、見つめ直すことができました」と、古民家宿「ほっこり屋」のご主人・遅塚(ちづか)智則さんは話す。
山梨県富士川町。南アルプスと富士山に囲まれ一級河川の富士川が流れる、自然豊かな地域。県道から山に向かって車を走らせると「十谷(じっこく)」という小さな集落が見えてくる。集落の中央あたりには桜が咲き誇っていて、その後方には立派な木造建ての古民家がある。
「ガラガラガラ」と横開きの扉を開けて出迎えてくれたのは、古民家宿「ほっこり屋」のご主人・遅塚(ちづか)智則さん。紅紫色の少しゆとりのある服を着こなした姿が印象的だ。
通された家の中は和室で構成されていて、いぐさの香りを嗅ぐかぐと、どこか懐かしい気分になる。掘りごたつに腰を下ろすと遅塚さんの奥さまの真実子さんがお茶を出してくれた。さっそく、遅塚さんに話を聞いてみた。
「この古民家で体験型の民宿をしています。自然食を取り入れた雑穀料理を一緒に作ったり、近くの渓谷に散策に行ったり、自分達で焚いたヒノキ風呂に入ったり。食と自然を満喫して、僕たちと話をしながら『ほっこり』してほしいです」
塩、醤油、味噌、雑穀、そして野菜。使用している食材は、どれも自然食品を扱っているそう。
「自然とのふれあいや食事を通じて、生活を見直すきっかけになったと言ってくれるお客さんもいます」
宿から徒歩数分にある大柳渓谷は、山梨県屈指の景勝地として有名な場所。空気がとてもおいしい。
「あとは、自分の本音と向き合う時間や場所になればいいな、と思っています」
宿泊施設で「自分の本音と向き合う」というのは少し意外だが、興味が湧いた。
「僕自身いままで、紆余曲折があってここにたどり着いていて。何回も転職したり、心の病気もして。『自分の本当の気持ちってなんだろう?』って自問したりして。だからこのほっこり屋が、そういった自分の本音と向き合いたい人の寄りどころになってくれたらなと思っているんです」
生き生きとした笑顔の遅塚さんが、心の病を患っていた。自分のやりたいことに悩んでいた。
どんな半生を、過ごしてきたのだろうか。
自分のやりたいことを模索する日々
「大学院で研究をしていましたが、時代もあって就職には苦労しました。研究職は諦めて、パソコンのリース会社に入社して、すぐにクレーム対応の部署に配属されて、それはもう大変でしたね」
描いていた道との大きな乖離にストレスを抱える日々。心身共に限界を感じ二年間勤務したのち退職。その後も、大きな選択の連続だったという。
「また大学院に戻ったんですけど半年で辞めました。ゼロから何かを提言することが、肌に合わないと気付いたんですね。そのあとは、もともと趣味にしていた音響関係を仕事にしたくて、専門学校に二年間通いました。もう憧れとか、自分の気持ちとか、そういうのを優先したくなって」
この頃から、少しずつ自分の気持ちを大切に、人生の道を選び始めた遅塚さん。
音響関係の講師が教鞭を執る専門学校。その講師から、仕事の紹介があったそう。
「とても嬉しかったですね。アルバイトから始めてそのまま就職させてもらって。けれど、やっぱりこの仕事もキツイんですよ!年に2回点滴打つぐらいに(笑)。そういった労働環境に違和感を抱いて、それも退社しました」
自分の気持ちに身を委ねて選択した結果、上手くいかないこともある。けど、人生は選択しないと分からないことばかりである。
「そのあとも、不動産会社の営業、メッキ工場、派遣営業の仕事などをしたんですけど、結局辞めちゃって。それで少し落ち着いたときに手に取った本が、サラリーマンから農家に転身した方の話だったんですね。そこで『こういう選択肢だってあるんだなぁ』と思ったんです」
遅塚さんはすぐに就農フェアに参加したそうだ。私はその話を聞いて「すごいなぁ」と心の声が漏れた。選択と失敗を繰り返しながら、それでも前に進み続けることは、簡単にできることではないと思う。
「もがきながらですけどね。でもそこから、ちょっとずつ、自分の気持ちに正直になっていったのかもしれないです」
遅塚さんの人生が、少しずつ新しいステージに向かっていく。
食と自然とパートナーとの出会い
「自然農法に興味を持ちました。それでいろいろ調べてみると、八ヶ岳の宿で自然農法を取り入れた田んぼの、体験プログラムを実施していたんですね。これだ!と思って、日帰りで通いつめて。なんだか没頭しましたね」
自然農法とは農薬や化学肥料を使用せず、自然のままに栽培する農業のこと。食の大切さに魅了された遅塚さんは、約半年ほど田んぼの手伝いを続けることに。人的な輪の広がりもあり、色々な巡り合わせがあったそうだ。
「『皮むき間伐』という林業のボランティアに参加に参加したんです。それがまた面白くて」
そのままの勢いで、そのボランティア活動をしているNPO法人に所属することになり、拠点も移したとのこと。舞台は山梨県富士宮市である。
「本当に楽しかったですね。平日はボランティアをしながら、休日は自然農法の田んぼをして。自然と食事と、少しずつですが、自分がやりたいなぁと思ったことをしている、そんな自分になっていた気がします。そうしたら今度は法人の知り合いの方から声がかかり、測量の会社に就職させて頂いて」
等身大の自分と向き合い、自分の気持ちを何より優先して人生の選択をした遅塚さん。そうすると、世界はとんとん拍子に広がったそうだ。
「そのNPO法人に新卒の子が所属するって聞いて。最初はそんな新卒で入ってくるなんて無理だよ、なんて言ってたんですけど」
苦笑いをしながら言葉をつづける遅塚さん。
「まぁ、それが今の奥さんなんですけどね!」
真実子さんとの出会いが、遅塚さんの人生をまた一つ、次のステージに押し上げたそう。
食と自然と人の輪で生まれた古民家宿
「実は僕らの結婚が『ほっこり屋』の誕生に、大きく関かかわっているのです!」と前のめりになって話してくれた。
「披露宴パーティーを朝霧高原のキャンプ場で開いたんです。1泊2日で貸し切って」
“1泊2日”の披露宴パーティーにしたことには、理由があるそうだ。
「NPO法人では、皮むき間伐のインストラクターを養成する、1泊2日の合宿を定期的に開催していました。似たような境遇や想いを持って参加された方がたくさんいたので、とても話が盛り上がるんです。森に囲まれた宿舎で、みんなとお酒を酌み交わしながら腹を割って話をして」
「自分はなんでこのボランティア活動に参加しているんだ、とか。自然や食事ってやっぱり大切だよね、とか。そういったそれぞれの人生の話をして、悩みを打ち明けたり意見を聞いたり。その時間が大好きだったんですね。だから結婚式もそれと同じような時間を皆さんに提供したかった」
企画、設営準備、集客、出演交渉、撮影、そして、新郎新婦。自分達で何から何まで準備した披露宴は、来賓者の笑顔であふれていた。
「確信したんですよ。こういうことがしたい。これを仕事にしたいって」
食と自然、そして人のつながり。それを通じて、自分の本当の気持ちと向き合うこと。
何度も選択と挫折を繰り返し、それでも自分の心の声に耳を傾け続けた。そんな遅塚さんが辿り着いたのが「ほっこり屋」の開業である。
「大前提として『ほっこり』して欲しいんです。自然食を体に取り入れながら、この雄大な自然に囲まれた古民家で一泊二日、暮らして。そうすることで、心のどこかに居心地の良い余裕が生まれると思うんです」
仕事や家での役割などに、ひたすらに対処し続けるせわしない毎日。
「自分がどうありたいか、どんな気持ちなのか。それと向き合う時間ってなかなかありませんから」
遅塚さんが身にまとう作務衣(さむい)の紅紫色は「自分らしく輝くこと」を表している。
人生に迷った時、日常に疲れた時、立ち止まってみる。
その気持ちを誰よりも理解してくれる、止まり木となる場所がここにはある。