【今回の取材地】
面積:112k㎡
総人口:13,622人
人口密度:122人/㎢
隣接自治体:南アルプス市、早川町など
(2024年1月1日時点)
今回は、自然の中で暮らす木工作家の「自然に生きる」生き方をご紹介。
「自然の生命を使って、僕は生きている。その自然と、同じように生きることを伝えています」と語るのは、スナンタ製作所代表の若林克友(わかばやし・かつとも)さん。自然と関わり続けることで生まれる、葛藤と楽しさ。そんな日々を過ごす木工作家のお話を伺った。
「生きるために」木とかかわっていく
山梨県西部に位置する、南巨摩(こま)郡富士川町。
一級河川である富士川が流れ、南アルプス連峰や富士山に囲まれた、自然豊かな土地である。
この富士川町の奥深い場所にある「砂垈(すなぬた)」集落で、
一人黙々と木と向き合い続けているのが、木工作家の若林さんだ。
「木工界隈では、『木工作家』vs『木工家』みたいな構図があるんですよ。
自分をどういう風に呼称したいのか、というだけの、変な話なんですけどね」
「スナンタ製作所」と筆で書かれた看板が印象的な二階建ての工房兼ギャラリー。もともと養蚕場だった場所を借りているそう。
椅子や机などの一般的な家具と小物、それに少し風変わりな形の作品が綺麗に並んでいる。
「僕はどちらかというと『木工作家』なんです。ひたすらに作品を作るというより、『なにかを伝えたい』という気持ちがあります。この考え方にたどり着くまでに随分時間がかかりましたけどね」
もともとは「ひたすらに作品を作る」ことにだけに没頭していたとのこと。
その「気付き」までの軌跡を、たどってみる。
「木材」が「樹」に変わった瞬間
「生まれは神奈川県の大和市です。中学高校時代は長野県で暮らしていました。そのあと東京の大学を卒業して、働き始めて福島県に行って、しばらくして震災があって札幌。で、今は山梨県。あちこち行ってますね」
色々な場所を転々としているが、その一つ一つの生活が若林さんの「今」を醸成しているようである。
「小さいころ、大和市の新興住宅街で暮らしていたんです。なので、周囲に建設現場が多くあって、そこで大工さんに端材をもらって。切ったり組み立てるとかしてよく遊んでいました」
若林さんにとって、「木材」は当時から身近な存在だったようだ。ただその認識も、長野県松本市に引越しをして以降、大きく変わる。
「松本市は、大和市と違って自然がたくさんある場所だったんです。5歳くらいのときかな。母が山から採ってきたアケビのツルで、籠(かご)を編んでるのを見て『山で生きていた木を、人が生活の中に取り込んで生きているんだ!』と、どこか驚いた記憶があります」
端材という命のない「木材」が、もともとは生きていた「樹」だった。
自然界に存在する「樹」が人の手によって「木材」になり、それを使って人は生活を営んでいる。
生命の上に、人間の生活が成り立っている。
その「気付き」が、若林さんが自然と生きていく最初の一歩となった。
「死に節・生き節」から感じた樹の生き様
「大学は日本大学の工学部(福島県郡山市)で、建築を一通り学びました。ただ、建築学科だったので、就職先がゼネコンやコンサルだったんです。僕は自分でものを作ることが好きだったので、企業への就職は向かないかなと。
でも、職人に弟子入りするかっていうと、そうじゃなくて。弟子入りすると、独立まで時間がかかってしまいます。また、大学時代から小物の家具などを制作して小遣い稼ぎしていて、制作に必要な場所や人脈はある程度あったので『もう独立しちゃえ!』って。勢いですね」
木工家の仕事は、テーブルや椅子などの家具作りが中心。
若林さんはまずは時計のフレームやキーホルダーのような小物から始めて、
徐々に家具などの注文も受けるようになる。
2004年には福島県天栄村に移住し「めばえ公舎」という工房もスタート。
家族にも恵まれ、仕事も安定してきた中で、ある出会いがあった。
「仕事をしていて、あるときから『節』に注目するようになりました。節とは、幹から伸びる枝の根本の部分のことです」
「節」という言葉。聞いたことはもちろんあるが、具体的にはよく知らない。どういったものなのだろうか。
「節は『生き節』と『死に節』に分かれます。生き節は枝がまだ生きている状態で、幹が肥大成長することで巻き込まれます。ただし、枝は生きている状態なので、いずれ節になる幹から伸びた部分の組織はがっちりと結合しています。
一方で、死に節は、すでに枯れてしまった枝を幹が巻き込んでしまった状態のことです。枝はすでに死んでしまって、水がにじんで沁み込んでしまうんですね。そうするとそこの部分は腐ってしまいますから、幹と枝の結合はされず、周囲は空間になります。
切断すると分かるのですが、その死に節の部分は、幹にも枝にも接合していないため、ちょっと触れるとその節はポロっと取れてしまい、穴が空いた状態になります。これを『抜け節』といいます」
「死に節や抜け節がある木材は、一般的には価値がないんです。強度や見た目の悪さもあって。でも僕はこの節が好きなんです」
死に節は、枝が死してなお、水の侵入による腐食を抑えるために、幹から樹液を出すそうだ。
そうすると節の内側は黒く変色するという。
その様子を若林さんは人の人生と重ねて見るようになった。
「この黒い部分は、生きてきた樹の痛みや苦しみの象徴であり、同時にそれでもなお、強く生きようとした証です。それは、人が生きるために必死にもがく姿と重なるんです」
命ある樹が生きてきた証を、死んでしまった木材から感じ取る。
とはいえ、この時点ではまだ、節に対して「面白いテーマの作品が作れそうだ」といった興味でしかなかったようだ。
そして、節の姿と自分を重ねずにはいられなくなった、2011年3月11日。
東日本大震災が発生した。
東日本大震災が変えた「死生観」と「仕事観」
当時、福岡県の山間部、天栄村の廃校で工房を営んでいた若林さんも被災。
強制移住を余儀なくされた。
「震災は、本当に自分の中の価値観が大きく変わりました。子供はすでに長男と次男がいて、震災の当日、奥さんは臨月に入っていました。無事に女の子が生まれてきてくれて一安心でしたが、そのあとも、福島県に居続ける選択肢は無かったです」
若林さんが暮らしていた天栄村は、福島第一原発から数十キロ離れた地域だが、放射線量は増加するいっぽうであった。
恐怖と不安だけが、募る毎日。
「自然をあつかう仕事をする自分にとって、その自然に脅威を抱いたことが、最も衝撃的でした。自然の恩恵を受けて生きてきた自分が、その自然による災害で苦しんでいる。ジレンマみたいなものはありました。
冷静さを取り戻すために、とりあえず仕事に取り掛かるんですが、また自然と対峙しないといけなくて手が止まる。それでも働かないと、家族を養えない、生きていけない」
自然が生活の基盤となっていた若林さんだからこそ、その自然が牙を向き、自分の生活を脅かしている事実を受け入れることができない。
仕事や木に対する、接し方が分からない。
今までと同じようには、いかなかった。
「そんなとき、節のことが頭に浮かんで少し冷静になることができたんです。今、自分が置かれている状況がまさに節の姿そのものなんじゃないかと。
葉が落ちて枝が枯れてしまった木が、なんとかその傷を癒そうとする。その苦しい傷にも負けずにひたすらに『強く』生きようとする姿。それは、震災で傷付いてもなお、もがきながらも『強く』生きようとしている周りの方々や自分の姿と、重なったんです」
若林さんは家族とともに札幌市に移住。彫刻を精力的に作るようになった。
テーマは「生きる」
「震災で気付いたのは『人も自然も、生きるために生きるものだ』ということの重要性。僕にとって『生きるために生きる』ということは、挫折や失望があっても、家族を養うために、自分も生きていくために、木と人の生命の尊さを理解した上で、木と向き合うこと。そしてその『想い』を彫刻に表現することでした」
震災を経験して死を意識した。
死してなお生きようとする樹の節は、ひたすらに生きるために生きていた。そして、他の生物や震災に遭った人も同じように、ただ純粋に生きるために生きていた。
今まで、若林さんの中で散らばっていた気付きが一つにつながった。
その気付き全てを理解した上で、ただ生きることに対して純粋に生きていく。
「とはいえ、僕もよく集中力が乱れたり、邪念があったり、全然まだまだです。樹には遠く及ばない。でもそれもある意味、人間臭いというか。そういうのを含めて、自分の自然体なのかもしれません。今は、そう思えることができます」
生きることにもがき苦しんだ人が、生きることを表現している。
そして興味深いのは、決して崇高な精神力だけが、若林さんの行為を支えているわけではなく、時には人間臭く、泥臭く生きていく。
そんな人間味溢れる若林さんが作る作品だからこそ「生きる」という想いが伝わってくる。
「結局、木に教えられていますね。ありのままに、強く生きていきたいです」
今日もスナンタ製作所では、木から学びを得ながら「生」を彫り続ける男が、腰を曲げたり、時にはピンと伸ばしたり。
悪戦苦闘しながらも、その表情には笑顔が見える。