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概要
台湾積体電路製造(TSMC)の工場建設で、半導体産業の一大拠点として注目される熊本県。第一工場は2024年末、第二工場は2027年の稼働を目指し、半導体関連の研究機関や企業も集まりつつある。TSMCの工場建設は地域経済に大変革をもたらすと同時に、高度技術人材の需要を急増させた。人材確保が喫緊の課題となる中、人材育成を担う大学には産業界や地域社会から大きな期待が寄せられている。
大学の対応:危機感と使命感が生む迅速な組織改革
熊本大学の対応は驚くべき速さで進められた。小川久雄学長は「全国の大学で最も変化している大学」と自負する。この迅速な対応の背景には、大学側の強い危機感と、日本の半導体産業の未来を担うという使命感がある。TSMCの工場稼働スケジュールに合わせる必要性も、このスピード感を後押しした。
熊本大学の小川久雄学長
熊本大学は2023年4月の「半導体・デジタル研究教育機構」を皮切りに、2024年4月に「工学部半導体デバイス工学課程」と「情報融合学環」を新設。2025年4月には大学院に「半導体・情報数理専攻」の設置が予定されている。これらの組織改革は、半導体分野の教育体制の整備という意味合いだけでなく、日本の産業競争力強化に向けた大学の強い決意が表れている。
工学部がない大学の人材育成
一方、2024年4月に半導体研究の第一人者として知られる黒田忠広氏を理事長に迎えた熊本県立大学。同大学に工学部はないが、「工学部がないからこそできる多様な人材育成がある」と黒田理事長は主張する。そのひとつが女性の登用だ。日本の半導体業界における女性の割合は2023年時点で2割未満とされている。
「半導体業界に女性が少ない理由は単純です。そもそも、工学部に人材を求めに行っているからです。実際、私が以前いた東京大学の工学部の女子学生は10%台でした」
熊本県立大学の黒田忠広理事長
工業製品を大量生産する時代、半導体といえば工学部だった。しかし高度化、複雑化する現代の半導体産業は、単一の専門分野の知識では不十分だ。半導体は国境を超えた複雑なサプライチェーンを持つグローバル産業であるため、背景の異なる世界の人々とコミュニケーションを取りながら仕事を進めなければならない。激しい国際競争の場でありながら、国際規格の策定や、環境問題への対応など業界全体で取り組むべき課題もある。
熊本県立大のデータサイエンス
TSMCが熊本に工場建設を決めた背景には、阿蘇山の湧水を中心とした豊富な地下水がある。火山性の地質でフィルターされた水を蓄える熊本は、大量の純度の高い水を必要とする半導体製造メーカーにとって魅力的な土地なのである。
ところが、熊本県民はこの世界的企業の進出を手放しで歓迎しているわけではない。足元の課題として挙げるのは、地下水への影響と交通渋滞だ。熊本県内には熊本市をはじめ、地下水を主要な水源として利用している自治体が多い。半導体製造によって地下水が大量に汲み上げられることで水位が低下し、周辺地域の住民・農業への影響が懸念されている。また工場からの排水処理が適切に行われないと、地下水が汚染される可能性もある。交通渋滞も懸念の一つだ。半導体関連の企業集積は、一部地域の渋滞の原因になっている。熊本地域はマイカー移動が中心なため、交通インフラが急速な企業の集積に対応できいない。
こうした課題に対処するには環境と共生し資源を活用する視点や、交通データを解析し都市計画に活かす視点も求められる。
WWDC Swift Student Challengeで入賞した秋岡菜々子さん
熊本県立大学ではTSMCの工場建設が話題になる前の2022年度から、データサイエンスを全学生の必修科目とするなど、以前から情報教育を強化してきた。「地下水や渋滞の問題は感覚ではなく、データに基づいて議論されなければいけません。データサイエンスの必修化は、データを統計的に分析し、物事をデータの側面から見る素養を全学生に身に着けてもらうことが目的」と黒田理事長は説明する。この取り組みは、早くも成果を出し始めているようだ。米Apple社が毎年開催する世界開発者会議「Worldwide Developers Conference (WWDC)」のイベントの一つで、全世界の学生を対象としたプログラミングコンテスト「Swift Student Challenge」で、熊本県立大学は3年連続で入賞者を輩出している。データを分析・可視化する過程で、大規模データを効率的に処理したりデータベースと連携したりするのに、プログラミングは欠かせない技術となっている。
Swift Student Challengeは学生プログラマーに創造性と実践的なスキルを身に着ける機会を提供するとともに、世界の開発者コミュニティに参加する道を開く意味合いもある。
人材育成の多角的アプローチ:変化対応力とリアリズムの重視
熊本大学と熊本県立大学のアプローチには、共通点がある。「変化」と「多様性」への対応だ。熊本大学の人材育成戦略で特筆したいのは、就職支援課による取り組みである。熊本大学が構築する独自の就職支援サイトの特徴は、1170人以上の卒業生のキャリアメッセージを閲覧できること。これにより、学生たちは多様なキャリアパスを知り、現実的な職業観を養える。従来なら、文系学部の学生が半導体業界や製薬・バイオテクノロジー関連業界といった、いわゆる理系の業界を志望するケースは少なかったかもしれない。ところが、実際のところどんな業界にもマーケティングや財務・経理、人事、国際渉外など文系学生の活躍できる場面はある。
熊本大学就職支援課専門職員の日和田伸一氏
「キャリアメッセージの価値は、卒業生が何をどのように考え、行動したかを知ることができる点にあります。情報があふれる時代に、身近な存在のリアルな声に勝るものはありません」そう話すのは、就職支援課の日和田伸一さん。
熊本大学はオンライン業界研究講座や企業説明会も積極的に実施している。半導体産業に焦点を当てた講座は、学部1年生から参加できるようにすることで、学生に業界の全体像を把握させる重要な機会を作っている。
日和田さんは「就職活動は、自分の人生を考える重要な機会。就職活動での経験が、その後の変化対応力やキャリア形成の基盤になる」と強調する。学生たちに「現実を知り、多様な視点を得る」機会を提供することで、「自ら動き、自ら学ぶ姿勢」を身につけて欲しいと願っている。
大学人材を様々な産業に輩出するパイプ役を担う
TSMC進出をチャンスに変える。産学連携と地域活性
同じ面積でより多くのトランジスタやメモリーを集積できる3次元積層実装技術が注目されている。この技術を産学連携で研究する枠組みとして、2023年4月に「くまもと3D連携コンソーシアム」が設立された。熊本県内に本社・事業所を置く100社以上の半導体関連企業や研究機関が参加する同コンソーシアムでは詳細は明らかにできないものの「すでに一定の成果が見え始めている」。そう話すのは、半導体・デジタル研究教育機構の佐藤幸生教授だ。
熊本大学 半導体・デジタル研究教育機構の佐藤幸生教授
熊本大学の産学連携の取り組みは、地域内での連携にとどまらない。2023年同大は台湾の国立陽明交通大学と大学間交流協定を締結し、その後、国立成功大学や国立台湾大学とも締結。2015年から協定を締結していた国立清華大学も併せて、2024年7月に台湾4大学と合同で「半導体キックオフシンポジウムin 熊本 2024」を開催した。
佐藤教授は「人材が交流すると、研究開発のスピードが上がる」と指摘する。異なる組織や背景を持つ研究者が集まることで、新たな発想や技術が生まれやすくなるのだ。このような環境は若手研究者や学生にとっても刺激的な学びの場となるだろう。
地域から世界を目指す
変化に対応するには「半導体=工業」といった従来の固定観念にとらわれない柔軟な思考が必要だ。県立大の黒田理事長は「これからの大学の役割は、知識よりも意識を作ることだ」と強調する。すでにTSMCの熊本進出は、半導体産業だけでなく地域の人材育成にも大きな影響を与えている。学生たちは世界最先端の企業や研究者と直接交流する機会を得ることで、業界の最新動向や求められるスキルを肌で感じ取ることが可能だ。インターンシップや共同研究プロジェクトへの参加を通じて、実践的な経験を積むこともできるようになるだろう。
Kick-off Symposium on Semiconductors in Kumamoto, 2024の集合写真
この影響は半導体業界にとどまらない。「TSMCの進出は熊本にとって大きなチャンスだと考えている。大学は地域の産業活性化に貢献する義務があるが、地域だけでなく世界に通用する人材を育成したい。地理的な利点を生かして、業界全体、地域人材のレベルアップをはかる。それが地域の活性化につながる」と熊大の小川学長は話す。熊本の大学は地域の強みである水資源と、世界的企業の進出という追い風を巧みに活かしながら、時代の要請を先取りした人材育成モデルを構築しつつある。